10兆円規模のファンドの運用益を大学に助成する、国際卓越研究大学候補の発表があった。衆目が一致して思っていただろう東大や京大ではなく、東北大が選ばれたことに、正直、嬉しかった。
出来の悪かった卒業生だが、我が母校である。私だけでなく家族にも、この大学にいろいろ関係がある。卒業生は私と私の甥。そして孫君は、現在、理学部(4年)に在学中。そして家内は私と結婚する前は、東北大学病院に勤めていた。
今は遠い昔
今は福井から仙台まで、北陸新幹線と東北新幹線で4時間弱で行ける。
しかし私が初めて受験のため仙台に行ったときは、新幹線もない時代。11時間ほど掛かった記憶がある。
福井から遠い地にあるこの大学に何故入ろうとしたのか。今般、候補に選定された理由の一つとして言われている、理系大学ではトップクラスの実績と研究環境があるとかが志望動機ではない。
こんな理由だった
昭和38年。北陸は積雪が2mを超える豪雪に見舞われた。
私の住む福井市では、家の2階から出入りする光景がTVに映し出されていた。
高校には除雪のため、スコップ持参で登校するようにとTVの画面にテロップが流れた。
来年は大学受験だが、この豪雪の体験が志望校選びに大きな影響を及ぼした。
もうこんな雪国は嫌だ、大学は絶対に雪が少ない、太平洋側の大学を選ぼうと。
そして、親離れの時期も重なり、親もあまり頻繁に来れない遠くの大学へ行こうと。
校内での学業順位(当時は、偏差値という概念はなく)で可能であり、かつ二つの拘りに叶う大学は、仙台にある東北大学だった。
大学への愛着
大学に入ってからは、勉強しなかった。麻雀やパチンコ、ダンスなどに呆けて、受験勉強燃え尽き症候群になった。大学は学び研究の場であることを、忘れたかのようだった。
真面目に勉強していた同級生は、西澤元総長など著名な教授がいる人気の学科、通信学科や電子工学科に入っていった。電気・通信と並んで東北大学といえば金属工学科だが、成績の悪かった私は、この学科に滑り込みで入ることが出来た。取得すべき単位も残り、あわや留年かなと思うほど、卒業もかろうじて出来た。
今、大学生活をスタートした川内キャンパスの白い教室を思い出している。懐かしい。
静かな落ち着いた環境で学業が出来る仙台。垢ぬけない、地味で真面目な学生が多い大学。
私は、こんな東北大学に大きな愛着を持っている。100周年には寄付もした。
頑張れ若手研究者
孫君は院試に合格し、希望の研究室にも入ることができたようだ。
若手研究者への環境整備は、国際卓越研究大学に向けた戦略に入っている。今般の選定は博士課程にも行きたい彼にとって、背中を押してくれそうだ。
「院生に給与支給されたらいいな!」とLINEで返事がきた。そうだね、来年彼の妹(孫娘)も大学へ入るし、親の負担も大変だ。そうなることを祈っている。
コメントをお書きください