悠々自適は、もう少し後でよい

先日私の卒業した高校の卒業55周年記念同窓会があった。昭和39年に高校卒業して55年後、現在、同窓生は74歳になった。参加した同窓生を見ると、身体つきはよぼっちく顔に皺一杯(女性の同窓生、ごめんなさい!)ではあるが、表情はいたって若々しい。元気そうに見えた。そもそも、同窓会に参加すること、参加しようと思うこと自体、心身ともに元気でないとできない。

 

この高校は県内でトップの進学校であり、私のクラスからは現役東大合格者を4名出した。うち二人はこの同窓会に参加していた。ともに前経団連会長、現在の経団連会長を出している企業で副社長、専務まで上り詰めている。同窓会の帰りの電車で、そのうちの一人、F君と一緒になった。電車の中でカーボン繊維、電気自動車、EV用蓄電池、太陽光発電が話題になったが、さすが秀才、理路整然と私に話しをしてくれた。彼も今年6月、ようやく副社長を退任し、仕事人生に終止符を打つようだ。

 

同窓生に後れをとった

他の同窓生はといえば、ほとんどが悠々自適の生活をしているらしい。エイジシュートを達成したK君のようにゴルフ、O君が嵌っている競馬、S君は絵画、N君の陶芸など好きなことをやって日々生活していると思われる。これは想像でしかない。わずかではあるがまだ現役で仕事をしているものもいる。一部上場会社の創業社長M君。サラリーマンから社長までなって8年も社長を続けているM君。そして中小企業の創業者でまだ社長をやっているK君。創業した会社を買い取ってもらって、第2創業して中小企業をコンサルしているY君。このY君は私であるが、なぜまだ働いているのか。堪え性がなく、わがまましていろいろ寄り道して結果、同窓生に後れをとった。それを取り戻そうとまだ働いている。聞かれたとき、半分真面目に半分適当に答えていた。

 

自分が好きである

「同窓生に後れをとった。それを取り戻そうとまだ働いている」。あるときまでは半分は嘘ではなかった。しかし今では、過去のものとなった。同級生が歩んできた人生と比較して、言い換えれば社会的価値(偉くなった、お金を持っている等々)と比較して自分の人生を判断していた。確かに老後に必要な2,000万円以上の蓄えはない。しかし最近では、社会的価値で人の人生と比較するほど馬鹿なことはないと思うようになった。いろいろ寄り道して同窓生より10年度ほど長く働いて見えてきた。そして、そう強く思うようになった。

 

今の私を嫌っていない。むしろ好きである。これまで以上に努力している。まじめに人に接している。誠実に仕事をしている。生来、おとなしい、気弱、口下手、一人行動が好きな性格のY君がよくやっていると思う。この年になっても、人に感謝される仕事ができることに最上の喜びを感じている。悠々自適は、もう少し後でよい。