思い込みを捨てて、お洒落に生きよう・・・

クルマを捨てた

あるキッカケで私がクルマを乗らなくなったのは、57歳のときです。免許証の更新を怠り免許の取り直しになった、という実に情けない事情がクルマを乗らなくなったキッカケでした。あれから、15年。57歳は免許を返納するには、まだまだ若く、クルマ社会に生きている周りの多くの人からは「どうして?」と聞かれたものです。それまでは、仕事やプライベートな用事には車は欠かせない存在でした。というよりは、そう思っていた、というのが正しいでしょうか。

 

思い込みを捨てた

「もういいや、クルマ無しの生活を試してやろう。クルマがないと不便で生活できない、は思い込みだったを証明してやろう」なんて、当時は悔し紛れに粋がっていたのを思い出します。しかし、当時の粋がっていた思いは間違いでなかったことを、今、実感しています。少なくなったとはいえ、まだまだ雪の多い北陸に住む私たちにとって、公共交通機関や徒歩で移動するのは、辛いものがあります。自然豊かな場所(たいていは秘境と呼ばれる)に行きたくとも、公共交通機関で行けないととき、不便さを感じます。でもそれ以上に、大きく大切なものを手にしたと感じています。歩くことで得られる健康であり、歩いてこそ感じる自然や季節の移ろい、街並みの空気。そして、(*1)家計の助けになっていることや(*2)クルマ利用に伴う、交通事故の加害者になったり自分が犠牲者になることのリスクがないこと、等です。

 

(*1)1,000cc程度のクルマの場合、維持費(保険・税金・駐車代・車両購入代)は、1,500円~2,000円/日 55万円~75万円/年かかる。 

(*2)厚生労働省の2010年度統計によると、1年以内に交通事故が原因での死亡者数は約7,499人。1年以上を含めると約8,000年。この数字をもとに、50年間車を運転し続けた場合、確率的には125人に一人は死亡事故、400人に一人が事故死、200人に一人が死亡時の加害者となる。

(以上、『クルマを捨ててこそ地方は甦る』(藤井聡著)より)

(出展:『クルマを捨ててこそ地方は甦る』(藤井聡著))

クルマを捨ててこそ地方は甦る

そうなったら私の住んでいる街も大きく変貌するだろう、と日頃思っていることを100%共有できた書籍があります。『クルマを捨ててこそ地方は甦る』(藤井聡著)です。「今地方が疲弊している重大な原因は、地方社会がクルマに依存しきっているという点にある、という真実はほとんど知られていないのではないかと思う。第一に、皆がクルマばかり使っていれば、つまり、クルマ社会化=モータリゼーションが進展すれば、鉄道はどんどん寂れていって、駅前商店街もダメになっていく。つまり、クルマ社会化は、地域の地元商店街や公共交通産業に大きな打撃を与える。第二に、クルマ社会化が進めば、郊外の大型ショッピングセンターは大流行となっていくが、それらは基本いずれも、グローバルマーケティングでも活躍するほどの地域外の資本で作られたお店だ。だからその利益の大半は地元に戻ってこないで、東京や大阪などの大都市に吸い上げられる。実際、筆者の研究室の調べでは、地元商店街では使ったオカネの5割から6割が地元に還元されるのだが、大型ショッピングセンターでは、1割から2割程度しか地元に還ってこない。その大半は、地元外に流出するのだ。つまりクルマ社会が進めば進むほど、住民が一生懸命働いて稼いだオカネが地域外に流出し、地域経済はますます疲弊していく。そして第三に、そうやって地域経済が衰退すればもちろん、地元の市や県に納められる税金も少なくなり、行政サービスも劣化していくことになる。(中略)つまり地方ではクルマが当たり前という常識こそが、地方を疲弊させているのだ」。

 

クルマ依存は格好悪い

私の住んでいる場所は、郊外ではなく、ほぼ中心市街地の範囲に入ります。それでも各家庭にはクルマが2台、3台。立派な玄関先がクルマの駐車スペースとなり、家の概観を損ねていて勿体ないなと感じます。私のように、クルマを捨てなさいとは言いません。「クルマがないと生活できない」という思い込みは捨てて、せめて1台でもクルマを減らしたライフスタイルを検討したらどうでしょうか、と言いたいのです。減らした不便さよりも、それ以上のメリットを感じるはずです。クルマに依存する人ほど、おしゃれに無頓着。クルマに依存するのは、格好悪い。もっと、お洒落に生きようではないでしょうか。お洒落な福井県人よ・・・。